らんらん分析

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おじいちゃんが死んで明日で1年。彼の死によって、僕ら家族が再び結ばれた話。

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おはようございます、荒川真行です。(@Kyadu777) | Twitter

 

大学4年生になり、この頃特に自分の将来や人生についてよく考えるようになりました。

 

現状、就職という選択肢は見ずに出来る事を模索していますので、自分の「生き方」について不安もさることながら、自分の仕事を何にするか?何をお金に変えていくか?…などなど、今のうちに考えておかなければならない事がとても多いのです。

 

そうして「生きる」事について思考を重ねる一方、生の反対である「死」が身近におきました。亡くなったのは言語障害を抱えながらも僕をたくさん可愛がってくれていた、おじいちゃんでした。

 

 

僕のおじいちゃんは資産家でもなく、お金に恵まれていた人には無いので多くの遺産などはありません。それでも彼の死は、とても価値のあるものを残してくれたと思っています。

 

それは、この世に残された僕らが「変わるきっかけ」です。

 

今日は「人の死によって、人は変われる」事についてお話をしたいなと思って記事を書いています。昨年の5月、僕のおじいちゃんは心不全で亡くなりました。

 

心臓の機能が弱まり、酸素吸入でなんとか生き続けたおじいちゃん

心不全。心臓の機能が衰弱して、酸素や血液を身体の中で正常に循環できなくなってしまう病気です。呼吸だけでは酸欠になり苦しくなってしまうので、病院に入院してからというもの、おじいちゃんの鼻には常に酸素吸引用のチューブが繋がっていました。

 

まさに「何とか生きている状態」で数か月を過ごしていました。

お見舞いにもよく行き、食欲もない中で「果物たっぷりゼリー」を持っていくと、喜んで食べてくれましたね。

 

しばらくしてからお医者さんに「退院しても良いですよ」と言われたので、おじいちゃんとおばあちゃんは再び一緒の暮らしに戻れる事に。僕が時間をみつけて遊びに行くと元気そうに振舞うものの、過度に瘦せ細ったおじいちゃんの背中はとてもとても小さく映っていた。

 

 

人間の最期なんてのは、本当にあっけない。

ある日、僕が昼に営業の仕事を終えてから名古屋に戻ってきていたので、父親と「一緒におじいちゃんたちの様子を見に行こう」という話になった。

 

朝頃には父親の方から会いに行く事はおばあちゃんに伝えてあったので、そのままおじいちゃんたちの家に向かい、到着したのだが家に誰も居ない。

 

 

どういうことだ?

お昼に行くって言ったのにどうして誰も居ないんだ・・・?

 

 

あまりにも静かすぎて、何かおかしい事はすぐに気付いた。

庭を見てみると窓が開いている事が分かったので、そこから部屋に入ってみるも中は既にもぬけの殻。

 

 

何かあったんじゃないか…?と思って家の受話器から発信履歴を確認してみると、そこに答えがあった。

 

「1・1・9」

 

 

 

 

そこからは早かった。

 

 

呼吸が苦しくなって救急車を呼び、近くの大学病院に緊急搬送された事。

ただでさえ酸素が回らず苦しいのに、立ち上がったときに倒れて頭を強打した事。

病院についた時には既に昏睡状態で意識は無く、声も何も届かない事。

おじいちゃんが死ぬまでに、あとわずかな時間しか残されていない事。

 

 

たくさんの事を一気に説明されたが、おじいちゃんが無くなるまでの数十分間、僕は手を握り続けて看取る事しか出来なかった。

 

 

生きているうちに「今まで有難う」とか、「これからも見守っててね」とか。そんな言葉をかける事が出来たら良かった。でもそれはもう叶わない。

 

 

人は簡単に死ぬから。マジで。

何気ない日常の中で愛する人や家族の「死」は突然やってくる。

 

 

順番順番なのは当然なんだけどね。

それでももっとおじいちゃんにしてあげられる事はあったんじゃないかって、今さらになって思う。遅いよ。

 

 

僕はいつもおじいちゃんから愛を受け取ってばかりだった。

 

 

絵手紙を教えてもらったり、囲碁の遊び方を教えてもらったり。

精一杯言葉を絞り出して「元気か?」って聞いてくれたり。

 

 

「うん!がんばってるよー!」って返すと、

「そうか、そうか。」とにっこり笑って返してくれるおじいちゃん。

 

 

は、もう居ない…。

 

 

生きている間もおじいちゃんは僕らに愛をたくさん与えてくれた。

でもそれだけじゃない。さらにおじいちゃんは死んでもなお、この世に残された僕らにとある「きっかけ」を与えてくれた。

 

 

それは「母の家族が10年越しに再会する機会」だったのです。

 

葬式の場で10年越しに再会を果たした母の家族

僕の母親はとても優しい人なのですが、様々な事情で母は自分の親と10年近く顔を合わせて居ないのです。当然、お互いに連絡を取り合う事などありませんでした。

 

精神的な問題が原因になっている為、今まで誰が何と言おうと、母親たちが再会する事など無かったのです。

 

例えていうと、「不登校になった子が学校に行かなければいけないのは分かっているけど、行けない…」ような感じでしょうか。理屈では分かっていても、誰かに論理的に説得されて理解は出来るのだけれど、無理なものは無理。そんな感じです。

 

 

そんな母の重い腰を最終的に動かしたのは…「おじいちゃんの死」でした。

 

 

10年振りにもう1度、母が自分の親に会った場所は亡くなったおじいちゃんの葬儀場だったのです。

 

 

どんな理由があるとしても、親族が亡くなればその葬儀には出席しなければいけません。母は身体が弱く、人前に長時間出るのはとても大変なのですが、けじめを付ける意味でも、しっかりとその場に出席しようと思ったのでしょう…。

 

 

その場でおじいちゃんのご冥福を祈ると共に、母の家族間で涙の再会があった事は言うまでもありません。

 

 

あれから母は、もう1度自分の親と仲良くやっています。母型のおじいちゃんとおばあちゃんは再び自分の娘に会えて、本当に嬉しそうだったなぁ。

 

 

おじいちゃんが亡くなった事がきっかけとなり、また家族が1つになれた。

そんな気がします。

 

 

生前にはお世話になったけど、亡くなった後も、おじいちゃんに助けられてばかりだなぁと改めて思いました。ありがとう。

 

明日はおじいちゃんの1周忌。

安らかに眠れるように、しっかりとお祈りしてきます。

 

 

おじいちゃん、これからも頑張るからね。

天国でのーんびり見守ってて下さい。